薄燈林

主に見た映画やアニメとかの感想をだらだらと

ポリスストーリー:備考

ポリスストーリー1から3まで見たので、ざっくりと感想。

3作見ていうのもなんだけど、1が一番面白い。

2は倒すべき敵がシンプルでなく、しかもコメディが前回より弱い。それでもジャッキー・チェンは相変わらずよく動いている。

3はもっとストーリーがおざなりな気がする。しかも笑うポイントがほとんどなく、ずっと緊迫していてジャッキーのおいしいところが半分削がれている。アクションは前よりも激しいが

 

やはりジャッキー・チェンはアクションスターでありながらコメディアンでもある。

筋肉が伸びて縮むように、ジャッキーには緊張と弛緩が必要だ。

1作目が一番面白いというのは少し寂しいところがある。

ポリスストーリー(1985)

 

ジャッキー・チェンの代表作。

ジャッキー・チェンの映画はこれが初めてだけど、正直驚いた。

ここまで面白いなんて。

 

あらすじ

刑事チェン(ジャッキー・チェン)を始めとする香港警察は、香港最大の麻薬組織のボス、チュウ・タオを追っていた。

チュウの秘書のサリナを捕まえたがチェンは、しかしチュウから逃げられてしまう。

必死の追跡の末にチェンはチュウを逮捕するも、司法取引により、チュウの裁判で”検察側の証人”として出るサリナをの護衛を命じられる。

もちろんチュウは容赦はしない。サリナを始末するべく次々と刺客が送られてくる。チェンはサリナを守り通すことができるのか...

 

感想:

ジャッキー・チェンを誤解していた。アクションスターだが、実はコメディでも輝ける。というか”動き”で笑いを生み出そうとするとき、当然そこには並外れたアクション・スタントの資質が求められる。

弾丸のように走り、爆弾のようにぶっ倒れる。

非常にコメディでもあった。

 

因みにエンディングでは、メイキング映像が流れる。

ガラスに突っ込んだり、走ったり、転んだり。

この試行錯誤こそが、この作品を稀代のアクション・コメディタラ占めている。

だからジャッキーの才能だけではないのだ。

(頭から血を流して意識を失っているカットもある)

ネオンデーモン

ニコラス・ウィンデング・レフン作る映画には暴力が絶えない。

今回だってそうだ。美しいものはいつだって暴力的だ。

人間は世界を知覚するために、視覚に大半を頼っている。目を開けば、嫌でも世界の形、色を知ることになる。

殴る、蹴るよりも、何よりインスタントで、最速の暴力こそ、美しさである。

それは光の速さで脳に進入してくる。

 

あらすじ:

16歳で上京してきたジェシーは、ひと目で才能を認められ、モデル業界で活躍する。彼女は自分の美貌に半ば自覚的だが、しかしそれが無二のものであることを知らなかった。その態度は先輩モデルを焦らせ、嫉妬させた。

業界の有力者たちは、彼女を見て、これこそ本物だと口々にいう。しかし彼女の周囲は許せない。自分たちが「偽物」であると言っているに等しいからだ。

生まれ持った己の業と、社会の摩擦の中で、やがてジェシーは自分の美貌を受け入れ、同時に振る舞いもそれに見合った、傲慢さを帯びてゆく。

周囲はさらに苛立ち、臨界点に達しようとしていた。

 

感想:

レフン監督の映画は多くを語ってはくれない。セリフが少なく、間を大きく取っているという意味でだ。

しかし圧倒的なビジュアルで黙らせるがごとく、抜群のカットが連続し、重低音は催眠的な世界へ誘ってくれる。

今回の作品はレフン監督の、なんというか、そういう芯が見えたような気がして楽しかった。お話は曖昧で、幻覚を見ているよう視聴体験だったが、そういった意味の没頭が好きな人にはお勧めできる映画だ。

 

PS.

この人はビジュアル重視なので照明には特に気を使っていると思う。だからちょっとだけだけど、天然の火が燃えているところを撮ったらどうなるのか見てみたい。
(もうあるかもしれない)

サブスタンス

 

サブスタンス

 

卵に蛍光イエローの薬品が注射される。すると黄身から分裂するようにもう一つの黄身が現れる。

物語は石畳にエリザベス=スパークルの名が刻まれた星が刻まれるところから始まる。

ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム - Wikipedia

時は経ち、星はひび割れ、そこに彼女の名が刻まれていることは、人々から忘れられてしまう。

現在のエリザベスはエクササイズ番組の主役、
際どい恰好だが、年齢を感じさせぬキレで踊る、往年のスターだ。

しかし彼女は偶然、プロデューサーの電話を聞き、自分が番組から降ろされてしまうことを知る。

老い、友人は無く、名声も尽きてしまい、仕事も失った。
帰り道、彼女は剥がされる自らのポスターに気を取られ、交通事故に会う。
しかし彼女は無事だった。病院で検査を受けた帰りに、腕に大きな痣がある、若い青年医師から一つのメモとUSBを渡される。

それは“サブスタンス”への扉だった。

 

 

サブスタンスは彼女の“若い”分身を作り出す、
正確には自らを元に、若く美しい分身を作り出す薬だった。

しかし規則が存在する。規則はシンプルで、
・二つの肉体は交互に使い、必ず1週間ごとに入れ替えること。
・使わない体には栄養チューブをつなぐこと。
・分裂を維持するため、母体(元の肉体)から体液を採取し毎日摂取すること。

だった。

彼女は若い体を得た上で、自分がクビになったエクササイズ番組の新人オーディションへと向かってしまう。
スーはその美貌で審査員を魅了し、センターを勝ち取る。
容姿と実力の甲斐あって番組は成功、エリザベスはスーとしてかつての栄光を取り戻した。

一方でエリザベスは古い肉体へ戻るのを厭うようになり、スーの身で1週間の規則を超過してしまう。

次の日、元の肉体に戻ったエリザベスの人差し指は醜く老いていた。

 

エリザベスとスー。
二人のバランスが崩れ始め、彼女の破滅は加速していく──────

 

 

 

この映画は不愉快な映像の連続で構成される。

近距離のショット、無礼で不潔な登場人物、音響、繰り返される重低音。
彼女は、あえて不愉快に感じられる、誇張された事象によって囲われている。

また針や、割ける背中などは直接的に恐怖を煽り、突然の老化は彼女を醜く変化させる。

これら全ての描写は、私たちに、人は肉体であるということを、嫌悪感を掻き立てながら突きつける。体は枷であり、老いてゆく器、この映画で彼女が囚われ続ける檻なのだ。

彼女は肉の価値観に囚われ続ける。若く美しい身体になっても彼女を拒んだ男達の元へ戻ってしまう。かつて栄光をもたらした世界に返り咲きたいという欲望は、終盤でも彼女を惑わし続け、遂にはその身を滅ぼしてしまう。

この、彼女を苦しめる欲望とは男性の視線である。エリザベスの容姿を醜いと評価し、スーを美しいとした世界の価値観だ。その視線は終盤でも存在し、会社の株主たちの、スーを見つめる視線など、スーを取り巻く世界は女性をものとしか思わない世界なのだ。

女性が向けられるいやらしい視線。不愉快で不気味で嫌悪感を引き立てる映像の数々は、これの追体験の為なのだ。

 

またこの映画は現実の問題に触れながら、現実を遠ざけようとしている。スタジオのオレンジ色の長い廊下、生活感の無い整えられたリビング、巨大な看板の数々など、背景美術は細かく調整され、非現実的な空間に観客を誘うように造られている。

またスマートフォンは使うが、SNSなどは一切出てこず、終盤の年末特番では子供の観客がいるにも関わらず、乳房を露出したダンサーが踊っている。

現実を語るために非現実を舞台とする、この映画は現代に作られた寓話なのだ。

 

 

 

この映画は終盤まで苦しい。それまではエリザベスが自らを傷つける様が続くからだ。実際私は映画館で目を背けてしまった。不快感に耐え切れなかった。避けてはいけないはずなのに。

 

しかしこの映画は観客に現実の問題を突きつけるだけでは終わらない。
詳しくは言えない(言いたくない)ので、気になった人には見て欲しい。

2週目を見る気にはなれないが、観終わったとき、少しだけ苦しさは紛れるかもしれない。曇り続きで晴天の星が見られないのが寂しいところだ。

フォールガイ(The Fall Guy)

これはスタントマン、ひいては映画の裏方たちの為の映画である。

あらすじ

 舞台はハリウッド、主人公のコルト・シーバーズ(ライアン・ゴズリング)はスタントマン。ハリウッドスター、トム・ライダー(アーロン・テイラー・ジョンソン)のスタントダブルでキャリアは順調、カメラマンで彼女のジョディ(エミリー・ブラント)ともうまく行っており、怖いものなしの人生を送っていた。

しかし落下のスタント中に事故が発生、身体に大事は残らなかったものの、心は壊れ、かつてのようには行かなくなっていた。彼女の重いも届かず、彼は失踪。気づけば小さな家族経営の飲食店、そこの駐車係に甘んじていた。

 自堕落にこの生活を続けて1年半、彼の元にある知らせが届く。それはプロデューサーのゲイルからだった。彼女は復帰を薦めるが、断るコルト。

しかし、かつての恋人ジョディが監督に出世し、復帰を望んでいると聞かされ、
彼はかつていた世界に戻ることを決意する。

謎の新人スタントマンとして配置され、見事にスタントを決めるコルト。現場ではジョディと”ひと悶着”あったが、かつての二人に戻ることができるとを感じていた。

 しかしゲイルからもう一つの頼みを受ける。それは撮影現場から失踪した主演トムを探し出して欲しいというものだった。

彼のスタントダブルの立場を生かしながら、捜索を進めていくコルト。しかしその先で彼が見つけたのは、謎の男の氷漬け死体だった。コルトはハリウッドで暗躍する陰謀に巻き込まれていた。

 

この映画は日本では2024年、夏の大作洋画として公開されたアクション映画である。

公開当時は見ることが出来なかったが、アマゾンプライムに追加されていたので見ることが出来た。

 

極めて娯楽作品でありながら、劇中の対立は現実的。オスカーやゴールデングローブ、国際映画祭で華々しく取り上げられる俳優、監督、それらで儲けるプロデューサーたち、彼らとは対照的にこの物語の主役はスタントマンだ。

スタントマンの物語であるがゆえに、この映画はドラマ性、あらゆる演出が抑えられ、引き立て役になっている。もっと言えば、物語の引き、展開で驚かせるつもりすらなく、全て、この映画で与える全てはアクションであると割り切っているかのようである。この物語は単なる手段でしかなかった、アクションという動機、スタントマンの活躍のための手段でしかなかった。

 

だからこの映画が空っぽであるというわけでは全く無い。

この映画を見た後で、スタントマンのことを、ハリウッドで働く多くのスタッフのことを意識せずに、映画鑑賞することは不可能だ。俳優たちの影に隠れて、彼らを輝かせる人々がいることを忘れられなくするのだ。

シビルウォー(絶対に合ってない)

シビルウォー アメリカ最後の日」

今年最もタイトルで損をしている映画の一つ。かなり損してる。どうみてもプライベートライアンみたいなアメリカでドンパチする映画だろ。

 

けど悪くない。むしろいい。

今のアメリカを考えたら、誰々のせいで内戦に発展したと描くより、大統領の暴走と各州の反発という構図を取ったのは決して悪い策ではないと思う。

 

この映画は戦場ジャーナリスト、戦場カメラマンたちが、もう間もなく陥落するワシントンDC(首都)へ行き、大統領にインタビューするまでの”旅”である。

特に音が良かった。戦場の音。爆発の音。銃弾の空を切る音。そして街の静音。映画館で初めて見たので、ますます音響に迫力があった。場面を切り取るカメラマンが主役である以上に、音響がこの映画を支配している。

 

戦場と平和な街、兵士と戦場カメラマン、この二つを映しながら首都まで向かっていくストーリー。現実との繋がりを薄くするため、リアリティから遠ざかるほど、アメリカである必要は無いように見える。

タイトルに飲まれている。本当にもったいない。

Can your hear the music?

憧れのひとが言っていたらかっこいいこのセリフ。

日本公開から3カ月経ってやっと意味が少しだけ分かった気がするのでメモ

Oppenheimer | Vision (youtube.com)

↑この動画の最初の部分なので是非聞いて欲しい。最近は字幕の自動翻訳もあるから。

 

これは映画「オッペンハイマー」の序盤の一幕、キリアン・マーフィー演じるオッペンハイマーに対し、ケネス・ブラナー演じるニールス・ボーアが語ったセリフ。

 

重要なのは楽譜が読めるかどうかでは無く、それが聞こえてくるかどうか、あなたには聞こえますか。(意訳)

 

もちろん会話のテーマはあくまで物理学や数学、数式についてだ。この何気ないワンシーンこそこの映画の意義を語っている。

クリストファー・ノーラン監督は基本的に無駄を省く傾向にある。そのため集中が途切れると重要なシーンはあっという間に過ぎ去っていくことも多い。

しかし大事な話をするときに、この部分は聞き流していいよなどと思って喋る人はいないはずで、このセリフ、シーンももちろんそうであるはずだ。

 

この映画では、オッペンハイマーは頻繁に幻視、幻覚に襲われる。前半では雨が作る水紋、光の環(原子のイメージか?)。後半では核が降り注ぐ空、また周囲が光と爆音にさらされ、人々の皮膚が焼けただれている幻覚は特に頻繁に出てくる。

 

感受性の高いオッペンハイマーがこうした幻覚に襲われるシーンは、自分たちがやってきたこと、自分が主導してきたことは可能性の実現でも何でもなく、ただの爆弾づくりでしかなかったと認めるシーンに繋がっていく。

それが爆弾だということ、それが2つの都市を灰燼に帰したこと、それは実現できると世界に示したこと、それらは紛れもなく自分の業であること。

 

多くの人々は平和を望んでいる。しかし平和の只中に在って、戦争や核が我々に何をもたらすのか、わかっている人は限りなく少ないはずだ。戦争や被爆を経験した人は少なくなっており、彼らのメッセージは残るが、その悲惨な経験は消えていっている。

人は言葉だけでは変わらない。言葉だけでその悲惨さ、脅威、それがもたらす惨状を伺い知ることはできない。人の想像にこそ限界があるのだ。

 

だからこそ、この映画の意義の一つは、オッペンハイマー追体験だ。彼を通して、直接見ていないが、聞いた結果から想像した、恐ろしい幻覚を観客に提供しているのだ。

 

またこの映画のみならず、映画そのものが持つ魅力は、想像以上の光景を、具体的に、大衆に見せることにある。

このセリフは、言葉を受けて理解するだけでは無く、想像することの重要性、さらにこの映画が持つ魅力を端的に表した、いいセリフだと思う。