薄燈林

主に見た映画やアニメとかの感想をだらだらと

バービーの思い出

 これはバービーに感じた既視感だが、平ジェネFinalみたいな映画に似ている。フィクションの世界から現実へ境界を越えてくる、あの頃遊んでいた持ち主(視聴者)と対面するなんかは特に近しい。

ただし、今ここにある問題に向き合うほどのパワーは仮面ライダーにはない。ビルドでも戦争や科学のもたらす光と影を描こうとしていたが、現実のそれと比べても、ヒーローという強力な兵器同士の衝突に終始していた。毎週日曜朝30分の子供向け番組は戦争には似つかわしくはないばかりに、生々しい無辜の人々の死を仮面ライダーには背負うことができない。予算感的にも。

仮面ライダーというコンテンツには日本のヒーロー観、多くの視聴者の価値観に影響を与えるものではない。子供たちのエンタメで、一年ですぐに消えゆく彼らには功も罪もあまりないのかもしれない。

 

追記:

別に仮面ライダーを下げたいわけでは無いので、個人的に好きだった仮面ライダーを並べておきます。興味があれば是非見てみてください。全部平成だけれども。

平成仮面ライダークウガ、アギト、龍騎、電王、キバ、W、鎧武、エグゼイド

個人的に平成前半は2話ごとのゲスト怪人が多いので、彼らのデザインを見るだけでも十分楽しめます。

首:雑記

 首、面白かった。初たけしで緊張したけれど、ずっと楽しく見ていられた。初っ端から首の断面、一族郎党斬首で始まり、そこから首、首、首とバイオレンスだった。加瀬亮の信長も良かった。最近ではあまり見られない狂った信長、上司にしたくない戦国武将第一位みたいなやつ。半分はこの信長の為に観に行ったようなものだったのでとにかく満足ではあったと思う。

人によっては盛り上がらなかったという話もある。私も確かに面白かったとは思うが、感情のボルテージが跳ね上がるようなことは決してなかった。それは、たけしによる恣意的な演出の結果だと強く感じられる。

なぜならたけしはあれだけ厳しいエンタメ業界に長い間君臨し続けて、観客の心がわからない脚本を書けないはずはない。しかし簡単に得られる情動や興奮はこの映画にはない。代わりに首、流血、殺戮、バイオレンスそのもので相手の目を引き続けるようだった。

それは本能寺の変を超えた後でも変わらなかった。信長の死も、明智光秀の自刃でも、多くの死が積み重なった後では麻痺するように、それらは劇的なものから遠ざかる。

そして極めつけには秀吉は、武士が執着し、劇中で何度も強調されてきた首級前に、死んでいることが分かっているのなら、首なんかなくたっていいと、光秀の首を蹴飛ばす。

ここで話は終わる。たけしの前では、戦国武将の誇り、執着、天下でさえも皮肉である。皮肉は時としてコメディである。強烈な赤に彩られたコメディだったのだ。それは人々を楽しませる「お笑い」では無く、時にはそれを笑う観客すら刺す「コメディ」だった。

 

理解のしやすい物語は好まれる。沸き立つような感動や情熱、悲劇に流す涙、去り行く時代への哀愁もいい。私も当然好きだ。だが時には、冷たく乾いた笑いで愉しむのも乙かもしれない。

キラーズオブザフラワームーン:雑記

 キラーズオブザフラワームーン見てきた。3時間もあって後半は己(尿意)との闘いだったけど、3時間以上の上映時間で飽きることは一切無く、高い満足感を得られること間違いはないだろう。次は巷で話題の饅頭を持参すべきか。

 

 この映画では白人による、有色人種への犯罪(その多くは殺人)が頻繁に出てくる。アメリカのティーンなどもこの映画は人気らしく、先祖たちが振るってきた実際に合った事件であるから当然ショックも大きかっただろう。だからと言って、日本人なので軽傷で済んだというわけでは無いが。

とにかく、オーセージの部族に対する陰謀、殺人は残酷極まりない。財産目当てに女性に近づき、結婚した後で財産の継承権を頂いたらさっさと殺してしまう。結婚した傍から次々と姉妹が死んでいく。知り合いも、ご近所さんも、次々死んでいく。

警察ももちろんグルなのでダメダメだ。特にオーセージの権力者であり、名士である白人のウィリアム・ヘイル、主にキングと呼ばれている(呼ばせてもいる)、彼が多くの白人や役人を抱き込んで陰謀を弄している。今作ではまさに彼の王国が築かれつつあった。

 

 この映画は嫌な感覚に支配されている。状況が好転しそうに無いという感覚だ。

一応だが原作のあらすじを調べてから見に行った。原作小説では、事件に対し、FBIの介入があり、一連の犯行の首謀者としてキングが有罪判決を受けるまでは知っていた。

そこまで知っていても嫌な空気が画面から発せられている。一連の事件を通しても解消されなかったそれは、現代にも通じている、常に身近な問題、差別だ。差別の歴史について詳しくはないのでここでは説明しないが、純粋で血なまぐさい、今もなお続く差別がそのままスクリーンに映し出されていた。

当時の一般的な白人(アメリカ人?)であるキングは、オーセージをただの蛮族として扱わない、彼らは賢いと、用心しろとさえ主人公に説明する。言葉が通じる、高い思考能力を持っている、そこまで言っておいてなお彼らを根絶やしにするように次々に殺害を指示するのはなぜだろうかと不思議でしょうがなかった。しかし今なら少しだけ分かる、これが差別なのだ。

 同じ人に見えるが、オーセージからは財産を奪ってもいい、殺してもいいと、彼は同胞に告げる。気の小さいキングのいとこである主人公でさえ、圧力に負け、愛していた妻にさえ毒を盛ってしまう。人ではあるが、同じ人の様には扱わない、あるいは自分たちは優れた人種であり、"それ以外"はどうなってもいいというアイデア。もはやゲーム感覚で次々と奪っていく。まるでギャングのように。

奪う快感、増える財産、そして白人という特権意識。決して貧しくはない彼らは、強欲と傲慢に浸りながら、犯行を重ねていった。

 生々しい暴力に溢れているが、差別について、実際にどのような空気感でそれが行われているかを知りたいなら、この映画は必見だろう。キング役のロバート・デ・ニーロの演技がとても恐ろしく、殊更に人間の闇のような精神性が光っていたし。ディカプリオ演じる主人公アーネスト・バークハートは気弱な小悪党ではあるが、妻を愛する気持ちは嘘ではないことも伝わっていたからこそ、彼の微かな善性が落ちていく様は見ていられなかった。

 最後まで読んでくれた人は大体ネタバレOKか、観に行った人たちであるだろうが、もし未見なら是非時間を作って観に行くべきだと思う。日本にいると差別を目撃する、あるいは差別の対象となることはあまり無いだろうから。

メメント

自分の外に世界はあるだろうか。

メメント」はノーランの初期の作品であり、巻き戻し、複雑な時間構成、緻密な会話といった、その後生まれる数々のノーラン監督作品の特異な映像表現の原液ともいえる。前向性健忘の主人公レナード(レニー)による、ある復讐の終点から起点へと逆向きに辿っていくこのストーリーは新鮮だったが、それよりも恐ろしさが勝ったと思う。

自分の世界、自分の現実、それらは間違いなく経験の堆積からなるものだ。体験を、咀嚼し、自分なりに解釈する。そうして今の自分が出来上がっていく。その解釈はどのようにして行われる?そのやり方はどこから学んだ?私は過去の自分によって作られている。

記憶には、3つのステップがある。記銘、保持(貯蔵)、想起だ。これらはそれぞれ、情報を覚えること、脳が情報を保存し続けること、情報を思い出すことを表す。レニーはこれらの内の「記銘」ができない。脳が新しい情報を保存するよりもずっと早く忘れてしまうのがレニーの前向性健忘症の症状だ。

記憶がこれ以上増えることがない。これが意味することは、残酷にも、レニーの中の世界は広がることは無い。レニーは忘れがたい最後の記憶、事件の日から抜け出せないのだ。

終盤では刑事テディから、既に復讐を成し遂げていたことが伝えられる。しかし彼はまたしても忘れ、更に自分をだますように、過去を捏造し始めた。自分の外にあるもう一つの時間、記録に手を加え始めたのだ。そして事件、妻の死の真実を知った後も、なおその記録すら燃やし、自分を利用したテディへの復讐のための記録を捏造し始める。「たとえ忘れてもやることに意味がある」と言って。

そしてレニーはテディを、事件の犯人として、過去の自分に騙されたまま、殺害する。そうして全てに「カタがついた」時、彼はまた記録を作り出すのだろうか。

レニーはあえて自分の過去を捏造し、記録に囚われることを良しとした。意味を認める外の世界さえも捏造するように。「記憶は自分の確認の為なんだ」「みんな そうだ」と続ける。記憶を忘れた彼は、記憶に確認され、妻を殺された(事実ではない)自分へと戻る。自分が永遠に囚われることを悟り、受け入れたのかもしれない。

私は恐ろしかった。過去から逃れられないことを良しとしたような、終盤の彼の、どこか前向きさを感じさせる顔が。

私にも外の世界はきっとある。目を閉じても、きっと。